FC2ブログ
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
引越しました。。

「続・珈琲crazy」

今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。。
スポンサーサイト
PM 4:12  カスミ 

ストローをくるくるかき回すと氷が回る。勢いを付け過ぎて、コーヒーがこぼれそうになった。コースターは真っ白な鈎針編みで、純白のレースが汚れないように、こぼさないギリギリのところでストローをかき回す。こぼれやしないか冷や冷やしながら、グラスの淵を見つめる私の目からは涙がこぼれた。
視界に入る正面のスミレ模様のカップのホットコーヒーは、すでに飲み干されて、私の溢れそうなアイスコーヒーは、氷が溶け、グラスのボディは丸々とした雫のような汗をかき、コースターへと流れ落ちる。私の頬を伝う雫もそれに劣らなかった。

スミレ模様のカップの横に置かれた伝票を取り、立ち上がる。テーブルの隙間を体を横にしてすり抜け、私の横を通り過ぎる瞬間、テーブルに長い足がぶつかった。テーブルが短く激しく上下に動き、レースに黒い染みがいくつもできた。そのまま足は視界から消え、私は椅子に座ったまま、黒いコースターと、誰も居なくなった壁側のソファを交互に見つめた。出入り口の扉の開閉を知らせる鐘の音が背中に聞こえ、静かに目を閉じうつむくと、頬を伝う余裕もなく落下する涙粒が、私の手の甲にはじけ落ちていく。それでもまだ冷たさを残したグラスのコーヒーを、私はストローで一気に飲んだ。彼が勝手に注文し、勝手に入れたシロップの絶妙な加減は、いつもと変わらない。飲み干した氷さえ無い空のグラスが私に、「最後」という現実を告げた。




PM 5:08  カズキ 

二人分のコーヒー代を支払うと、今までにない後味で、店の扉を開け外へ出た。開閉の度に鳴る扉の鐘が、今日はやけに耳に響く。一人きりで店を出るのは初めてだった。
駅までの道は、住宅とマンションと小学校を通るだけの簡単な道順で、後ろへ進めば彼女のアパートがあり、その手前の店でいつも二人でコーヒーを飲んだ。僕が彼女の好きなアイスコーヒーを先に注文し、運ばれて来たら、シロップを入れてあげる。そうすると、扉の鐘を鳴らし、彼女がやってくる。
「今日もネコくんいた?」
と、聞きながら正面の席に座ると、カラコロとストローで、シロップの入ったコーヒーをかき回し、僕らの好きな時間が始まる。今日は何も言わずにいつまでもかき回していた。とうとう氷が溶けて無くなってしまっても、彼女はやめようとはしなかった。

小学校から駅までの間にある小さな公園に、いつも同じ猫が姿を見せる。夜中だと暗くてよく見えず、いるのかいないのかわからないが、昼間は大抵この公園付近をうろついているので、横目に猫の姿を探しながら、公園を通り過ぎるのが癖になっていた。突然、公園の中央のブランコが、音を立て波打った。猫が走り去っていく。別れのあいさつにしては少々乱暴だな、と思いながら、
「さよなら。」
と、心の中で呟いた。

もう降りることのない駅から電車に乗り、彼女のことを考えた。僕の手を握り、振り子のように大きく上へ振り上げると、今度は下へ振り下げる。それを何度も繰り返しながら駅まで送ってくれた。声を上げて笑う無垢な顔を確かに愛しく感じていたはずなのに。涙を流し、コーヒーをかき回す彼女の姿を思い出すと、今更ながら罪悪感を感じた。電車の不規則な振動が、胸に溜まりつく重たい砂のような感情を振り払うのを手伝った。









PM 7:56  カノコ

喫茶店のバイトの帰りに、駅の手前の公園で自転車を停める。昼休憩に残しておいたラップにくるまれたチーズトーストを、鞄の横ポケットから取り出してブランコに座ると、どこからともなく薄グレーの猫が現れ、私の前にちょこんと座った。足を地面に着けたまま、腰掛けたブランコを前後させながら、パンを小さくちぎって猫にあげる。
「今日ね、私の好きな恋人さん達がね・・・」
なんて、猫に言ったってわかるわけないか。猫は、私との距離を保ちながら、前足をペロペロと舐めている。

バイト先の喫茶店に時々来るお客さんだった。恋人同士の二人が放つ雰囲気は柔らかい。私は、彼らが店に居る時間が好きだった。二人の注文はいつも同じで、決まって男の人が先に注文をした。今日も、いつものようにアイスとホットを運び、私はカウンターの中で、彼と一緒に扉が開くのを待った。遠めにはいつもと変わらない、当たり前過ぎるほどに馴染んだ光景で、それは不変のものだと勝手に信じて疑わなかった。でも、「絶対」なんてないんだ。
今日だけ、二人の帰りの鐘の音を二度聞いた。グラスの置かれたコースターにコーヒーが染みているのは初めてだった。口を付けられることはないということをわかっていながら、決まり事のように並んだ二つの冷水グラスは、テーブルを拭く振動のせいで、少し離れた距離を保ちながら、それぞれに揺れていた。



  
珈琲クレイジーへようこそ。


短期間で集中して執筆した気がしています。さて珈琲を何杯飲んだことか・・(笑)
思い付きだけで書くことが減ってきました・・ほんとに思い付きだけで書いてるやつありますし。今はもっと深みのある内容を目指しています。

それでは、今回も解説を・・・



スウィートホーム


痛快な話を書きたかったんですが、果たして痛快かどうか・・(笑)
笑うしかないだろ・・みたいなノリです。
どうしようもない親だけど、憎めない。ホタルがしっかりしていればいいじゃないか。
と、思っちゃいません?どっちが大人なんだか子供なんだか・・・ね。




拝啓 金魚様


ありそでなさそな、なさそでありそな・・マニアな世界には案外あるかもしれませんよ。
普通そうな人間でも、案外意外な人生だったりするもんです。変わって見えてる人間でも、案外普通だったりするもんです。
ふつうの日常でも、ドラマはたくさん潜んでいます。私は常にそこをテーマに執筆しています。
普通、日常、普遍・・これ以上私の興味をそそる題材はありません。



波の音を、君にだけ。


金魚の続編を早く書きたいけど、続け様に書くのはなんだか嫌だったので、間に箸休め的なつもりで書いたものです。その割に気に入ってたりしますけど(笑)
こういう男の人がいたら可愛いなぁ。と。
そのピアスを付けたら、ほんとうに波の音が聴こえてきそうな気がします。


アカバシロマンス


続編を書くつもりで、金魚を書いたわけではないのですが、「続きそうだな。」と言われ、私も金魚とタクミのその後を見たいな、と思って、フツフツと書きたい欲が湧き上がってきました。
桜とハカセも、もっと表に出したい思いもあったので、これで日の目を見たかなぁと(笑)
桜のようなタイプは好きですね。私は、テンパると、金魚のような行動を取ると思います・・

生き物好きの主人がチラリちらり発する言葉からヒントを得たり、設定等の参考になっています。(笑)アップしてからバックアップも何もとらないまま、携帯からの編集をミスってほとんど消してしまいました。(しかも前にも同じような失敗してる・・)放心・・でしたが(笑)前よりパワーアップさせてやる!とムキになって徹夜で思い出しながら書きました(涙)

また続きそうな感じで終わってしまいましたが、お互いを認識するということが肝心なので、あとは二人で勝手にやって、って感じです。あまり結末を決め付けるのが好きではないので、登場人物の自由、読み手の自由に委ねたいです。



きょうとおばんだい


これは・・なかなかノレなくて、時間かかりました。
半分、実話、半分、架空です。
主人は銭湯の息子でした。今はもう閉めてしていませんが、主人の祖父の代から営んでいました。勇策が主人、勇三が義父の目線で、私が経験談を脚色して書いたものです。
義父に、取材しました(笑) 「番台」という場所は、左右に男と女を見下ろす、異質な空間だと私は想像します。今の希薄な近所付き合いと違い、皆が一緒に地域で共に生きていた、戦争があっても今より人情があった、と私は義父の話を聞きながら思っていました。
「番台」という不思議な場所に座ってみたいです。大変興味深く思います。

以前から、「銭湯」を舞台に書けないかな、と思ってはいましたが、なかなか展開と構想がまとまらず、苦戦しました(笑)一回全部書き直したり・・
時代が飛び飛びなので、わかりにくいかもしれないですね・・
追々、編集の余地ありで、随時更新するかもしれません・・








今回も、長々とお付き合いありがとうございました。
コメント、拍手、ランキング投票・・頂けますととても嬉しいです。

それでは次回の <<カップに珈琲を注ぐまで・・・>> でお会いしましょう。
ー 二又コミュニケーション -




<昭和30年代末期 京都>

舟越製材所へおがくずを買いにトラックを走らせた。横に息子の勇策を乗せたまま、途中で頼まれ物を運ぶ。お小遣い程度だがいくらかお礼を受け取り、息子さんにと、ラムネを一本頂いた。車のある僕の家は、よく物を運ぶ用事を頼まれる。良いお小遣い稼ぎだった。製材所からの帰りもずっと、勇策はラムネの瓶を大事に握り締めていた。「開けたる、貸してみ。今飲んどかなねーちゃんの分ないねんから。内緒やで。」信号待ちで、息子の手から半ば無理やり瓶を奪って、ビー玉を下に落とす。もったいぶっていたのか、ねーちゃんに自慢しようと思っていたのかは知らないが、不服そうな顔だった。しばらく走って息子の様子を伺うと、ラムネは空っぽになっていて、上唇に付いたラムネの雫を舌でペロペロ舐めていた。その顔は満足気だった。
伏見と南の境近くの東山は、閑静とは言えないが活気に溢れた土地だ。息子を車から降ろし、燃料のおがくずを釜にくべ、営業の準備を始める。火の番は親父がする。沸いた湯を風呂に張り、僕は表に湯の字ののれんを下げた。それと同時に安井はんが来るのが常だ。真冬以外はステテコ一丁に桶を持ち、帰りも同じ格好で帰って行く。しばらく後に安井はんの奥さんが来る。それぞれ男湯、女湯の一番風呂だ。僕は玄関を軽く履き、風呂が混む前のひと時を気長に過ごす。
日の暮れに入り口の表の植木に水を遣っていると、下駄の音が近付いた。
「てるちゃん、来てるか?」
たばこやの辰夫だった。「おう、さっき来たとこや。中にいはるで。」ホースの口を潰して水の勢いを強めながら、てるちゃんが来ていることを伝えた。家に風呂を造る家もだんだんと増えてはいたが、庶民の家にはまだ風呂のない家が多かった。皆、風呂で誰かしらに会えるのを目的に来ている。誰かに用事がある時は、いそうな時間に風呂屋に行けばいい。銭湯は「風呂」以外で担う役割が結構大きい。「おいでやす。」辰夫を迎え入れる嫁さんの声が中から聞こえた。間髪入れず「またおいでやす。」と聞こえ、のれんを分け出て中から仏壇屋の村田はんが出てきた。「勇三、おやすみ。」と言われ、「おおきに。」とお辞儀をして僕は中へ入った。僕が結婚して親父と代替わりをしても、番台に、母さん以外に嫁さんが座るようになったことくらいしか特に変化はなかった。安井夫婦を皮切りに、男も女も次々と馴染みの顔がやってくる。日々変わらない光景だが、番台を境に二又の通り道には毎日新鮮な空気が流れる。女湯の脱衣所から甲高い笑い声が響く。女は一度入るとなかなか出てこない。風呂もそこそこに話が尽きないようだ。脱衣所でしこたま喋り、下駄を履き、帰るのかと思いきや玄関の段の隅っこに座りまた喋りだす。明日話せばええのに。と男は思うのだった。








<昭和50年代 初期>

営業の終わった後のガランとした浴場で、俺は足を伸ばして首までつかり鼻歌を歌った。友達に「贅沢」と言われ、これは贅沢なんだと知った。壁のタイルに描かれた富士とカモメを何となく見つめながら、そろそろサウナに入ろうと湯船に浸かりながらタオルを絞った。風呂に入ったついでに、風呂掃除をするのが家族間の暗黙のルールだった。女湯は姉貴がして、男湯は俺の役割だった。サウナの後でデッキブラシとタワシを持って、浴場のタイルの目地をこすった。すぐに面倒臭くなり、桶で湯船の湯を適当に撒いて終わらせた。真面目に掃除をする日もあったが三日と続いたことがない。銭湯と家は少し離れていて、専門学校に通う時に、毎朝「松の湯」の前を通る。早朝からおとんとおかんは風呂の掃除をする。濾過機の逆洗や湯沸かし器に溜まった垢や髪の毛などの掃除、脱衣所の掃除など毎日しなければならない。通ったついでに入り口を覗くと、浴場の引き戸を全開におとんがブラシを掛けていた。夕べ俺がサボった所をきっちりブラッシングしていた。なんだかバツが悪いので、気付かれる前にさっさと自転車にまたがった。

「こんな毎日、ええなぁ!」
専門学校で知り合った修司がでっかい声で言った。最後のお客さんが帰った後の風呂は、俺達の貸切だった。「もっと早うにユウサクんちに泊まりに来ればよかったわ!」修司は今にも泳ぎだしそうな変な格好ではしゃいでいた。銭湯は知っていても、ここが自分ちだったら・・・と想像すると、ついつい興奮してしまうのだろう。「・・え、でも、掃除とか管理とか、結構大変やで?」俺は掃除すらろくにできないのに、知った風に言った。「サウナもあるしなぁ。・・・なぁ!今度女湯覗こうや!」俺の話などまるで聞いていない。修司は銭湯から連想される事柄をできるだけ口にした。「・・覗けるわけないやろ。」家が銭湯だと知ると、何度と無く同じことを言われてきた俺には飽き飽きする言葉だった。「なんで穴とか作っとかへんねん!」怒られた。「穴なんてないわ!壁とかタイルとか天井とか、簡単に開けられるわけないやろっ!」俺もついムキになって答えた。「・・・そうか、できひんのか・・」修司は本気でがっかりしていた。「・・おばはんや子供の裸見て何がおもろいねん。」納得してもらえそうな理由を考えて言った。「・・・見てみな熟女の良さはわからんやろ!」言い返しては来たが、現実はそう甘くないということを悟っている様子だった。「商売は信用が大事や。銭湯の息子が覗きしてどないすんねん。・・・シュウジ、サウナ入ろか。」シラけるとはわかっていても、俺は真面目な台詞を吐いてタオルを絞り身体を拭いた。俺の後に修司も続いてサウナに入った。
「俺、風呂の掃除せなあかんねん。シュウジ、先あがって待っといて。」
俺はブラシとタワシを持って再び浴場へ入ろうとした。手伝うわ、と修司が俺の持っていたタワシを取った。やり方を教えながら、二人とも裸で丁寧に風呂掃除をした。二人で手分けをしても結構しんどい。これをおとんは毎日しているのか・・と思うと、サボらず真面目にやろうと心の中で誓った。桶で湯船のお湯を汲んで、これまた丁寧に床のタイルに撒いた。男湯には釜への入り口があって、今は番台に湯沸しのスイッチがあり、いちいち釜まで行かなくても良いが、昔は付きっ切りで火をくべて釜の番をしていた。掃除の最後に桶と椅子を積み上げ片付けながら、何気なく釜の戸口に目が行った。改装前の釜戸の上のタイルにはヒビが入っていたことを思い出した。
俺が高校に上がる頃に、「松の湯」は大改装をした。それまでは、サウナもなかったし、洗い場の一つ一つにシャワーもなかった。サウナは改装当時まだ珍しく、おとんはサウナ代を別でとらなかったので皆に喜ばれた。サウナの増えた今では、お客さんに、「勇三、なんでサウナ代とらへんねん。よそは皆とっとんで!もったいない。」とよく言われている。おとんは、取る気は全くないらしい。「おまけでサウナに入ってもろたらええねや。」と言っている。先駆けだったことと、風呂代だけでサウナに入れることで新装後、「松の湯」は繁盛した。それを狙ってやるほど器用な人間ではないだろうが、皆に喜んでもらいたいというおとんの気持ちが生んだ結果だと俺は思っている。銭湯の設備も時代に漏れることなく近代化が進み、じいさんが釜戸に出入りすることも少なくなった。俺が小学校の頃、じいさんが目方を誤り、かまの戸口の上のタイルで頭をぶつけた。釜の戸は大人はかがまないと通れないくらい小さい戸口だった。ぶつけたところを見たわけではないが、頭を抱えて戸の前でしゃがみこんでいるのを見たのできっとぶつけたのだと思う。頭をさすりながら険しい顔つきで風呂場から出て行った。すぐに戻ってきたが、手には金づちがあった。何の躊躇もなく釜戸の前に早足で近付くと、勢い良く金づちをふりかざし、自分で頭をぶつけたタイルに思いっ切り打ちつけた。タイルにはピキっとヒビが入った・・。気が済んだのか、じいさんは今度こそ本当に風呂場から出て行った。俺が、なぜその時風呂場に居合わせたのかはわからない。とにかく恐ろしい光景だった。おとんとおかんに話したかどうかも覚えていないが、寝る前に布団の中で、姉貴にその話をした。
「笑えないドリフのコントみたい。」
あっけらかんと言われたので、俺は少しばかり恐怖が和らいだ。
久しぶりに思い出した記憶にも関わらず、強烈に鮮明な記憶だった。俺は修司と並んで着替えながら、風呂上りに何を飲むか、という質問に、「オロナミンC。」と答えた。











<昭和10年代 中期 第二次世界大戦中>

父さんが風呂の湯を沸かし始める頃から、入り口の前には長蛇の列ができていた。一日置きに営業ができる「松の湯」は遠くからもお客さんが足を運んだ。戦争で燃料がなく、よその銭湯は三日に一度の営業がせいぜいだと父さんが言っていた。ここは、近くに軍事工場があって、爆弾や爆薬の箱の廃材を売ってもらえたので、燃料は何とか調達できていた。タンクの水が沸き、湯船に湯を張り、並んだ客を入れる。風呂に溜める湯でタンクの湯はほとんどなくなる。男も女も我先にと風呂場へ突っ込み、湯船の湯は掛け湯であっという間に底近くまで減る。たまり湯のような風呂に隙間無く人が浸かる。入りきれない人達が脇のほうで順番を待つ。片足を突っ込みながら、入り込む一瞬の隙をギラギラと狙っている。芋洗いの芋よりも泥臭い光景だ。数時間かけて沸かして溜めたお湯が無くなるのは瞬間劇だった。第一陣で入り損ねたお客さんは、タンクに水を溜め、それが沸くまでまたしばらく待つより他ない。僕は、お客さんを入れる前の風呂に入る日もあった。なるべく控えめにお湯を使い、ポチャンと一人湯船に浸かると、取り残された小芋のような気がして少し寂しい気もした。
風呂のない日も家の前に人が並んだ。銭湯の営業と一日置きで畑をしている父さんが引き車で採って帰った野菜を買いに近所の人が並ぶのだ。「お金なんて、価値ないで。」と大人はよく言っている。そのお金でうちの野菜は買われて行くのだ。ばあちゃんが、丸まった背中に野菜を背負っては、近所のお父さんが兵隊さんに行っている家のおばちゃん達に野菜をわけてあげているのを僕は見ていた。お金に価値なんてないから、ばあちゃんはみんなにあげているのかな。ばあちゃんは、近所のみんなから慕われていた。畑は遠い遠い山の中にあって、子供の足ではついていけないと言われていた。銭湯のない日に、たくさんの野菜を引き車で引っ張って帰ってくる父さんなのに、ごはんに食べる野菜はいつも僕達よりも少なかった。
長男の僕は、あまり忙しくない日の銭湯の下駄番をしたり、浴場の掃除を手伝ったりした。父さんの畑仕事も早く手伝えるようになりたかった。母さんの座る番台にも座ってみたかったが、男はあかん、と父さんに言われた。











<昭和30年代 末期>

「勇策、一番風呂に入るか?」
おとんと一緒に製材所に行く前に、どっかのおばちゃんから貰ったラムネの空瓶をねーちゃんに見つからないように下駄箱に隠して、おかんに言われるまま風呂に入った。湯船に浸かっていると、安井のおっちゃんが来た。
「お?今日は一番、取られたなぁ。はっはっはー。」とおっちゃんが大きな声で笑った。おっちゃんは、椅子に座ってザバザバと頭から湯をかぶった。しばらく落ち着かない動きをしていて、変な人だと思ったら、突然さっきより大きな声で女湯に向かって叫んだ。
「かーちゃーん!石ケン忘れてしもたわー!」
女湯からは、「どないすんの。諦めよし!」と安井のおばちゃんの声が聞こえた。
「そっちの鍵開けて、チャチャっと石ケンだけ渡してくれたらええやん!」
男湯と女湯の間に小さい扉があって、鍵は女湯のほうに付いていた。
「しゃーないなぁ!こっちまだ誰もおらんし、今のうちやで。はよ取りにき!」
おばちゃんがカチャっと鍵を開け、手だけ男湯のほうに出し、石ケンを差し出した。
「おおきに、おおきに。」とおっちゃんは石ケンを受け取ったが、「なんや、ちっさい石ケン!!」と、ぶつぶつ文句を言っていた。そんなやりとりがあったとは知らず、他のお客さんも何人か来始めた。のぼせそうになったので、あがることにした。脱衣所の鏡で見た顔は茹でダコみたいに真っ赤だった。喉も渇いていた。やっぱりさっきのラムネを飲まずに取っておくべきだったと思った。
番台のおかんと目が合った。タコみたいな顔のせいか、おかんはクスクス笑った。そのせいで、余計に赤くなるのを感じた。





<昭和30年代 末期>

嫁さんの「おいでやす。」「またおいでやす。」という小気味良い声を耳に、男湯の脱衣所の点検と片付けをしながら、最後のお客さんが帰るのを待って僕も風呂に入った。広い湯船を一人で占領するのはなんとも気持ちの良いものだ。営業途中で風呂場の様子を覗きに来た時に、遠山の金さんみたいな背中に子分の若いのが湯をかけている横で、小さい坊主が不思議そうに見つめていた。おもむろに近付いて、金さんの背中を指でなぞって、その指を見ながら、不思議そうに首をかしげていた。背中がくすぐったかったのか、坊主が可笑しかったのかは知らないが、金さんはニコニコ笑っていた。どんな人でも、風呂で喜ぶ顔を見るのは嬉しいものだ。
湯船でしばらく身体を癒すと、次は風呂の掃除が待っている。勇策がもっと大きくなって、風呂掃除くらいできるようになる日が早く来ないかと、期待に胸を膨らました。
男湯にしかない天窓からは夜空の星が輝いて美しかった。











ー 灯火管制 -



夜になって電球を点ける前に、じいちゃんと父さんがすべての窓の黒いカーテンを閉める。上のほうの小窓はペンキで黒く塗り潰され、昼でも夜でも光りを通すことはない。電球にも黒くて細長いほっかぶりみたいなものをかぶせてある。黒い窓は、夜を更に暗くするような感じがする。下駄番をしながらカーテンを閉める父さんを見ていた。
「ふろあかいぞー!」
外から声がした。灯りが漏れていることを知らせてくれたのだ。父さんが窓に近付き、カーテンにできた隙間を慎重に閉め直すのを見ながら、アメリカ軍の飛行機が僕の家を見つけて爆弾を落っことしやしないかとドキドキしていた。まだ見つかっていないかもしれない。お客さんが通る度にできる出入り口の隙間を、僕は黒いカーテンの端っこでいちいち埋めた。外の見えない黒い布の向こうに、アメリカ軍の戦闘機を見ていた。汗ばんだ手には、お客さんに渡す下駄の番号札が数枚あった。もうずっと、夜空を見ていない。窓を開けるのが怖くて星を見ていない。

大人になったら、明るくて、毎日たっぷりのお湯をみんなが使えるお風呂屋さんにしたいと僕は思っていた。夢みたいだけど想像すると胸がワクワクした。




「勇三、これやるわ。」




下駄番のご褒美に、と酒屋さんのお客さんがくれたラムネを、下駄箱の隅っこに隠し置いては大事にチビチビ飲んだ。あの窓から星空が眺められる日を夢見ながら。



続編です。
前作をお読みでない方は、先にこちらをお読み下さい。 → 「拝啓 金魚様」











--  櫻(モモ)  --





「おまえ、気持ち悪いよ。」
オタクの弟に、気持ち悪いと言われた。私が今まで気を使って言わないであげてきた言葉を、あっさりと口にしてくれた。「おまえ、俺の部屋に勝手に入るなよ。興味なかったくせに、水槽に餌金勝手に入れてんじゃねぇよ。気持ち悪ぃって・・。」手間暇かけて飼育している魚達を鑑賞されることが彼の喜びではないのか。テリトリー侵入者のような扱いだ。確かに、勝手に部屋に入っているのだから、勝手に入るなと言われるのは仕方がないが、気持ち悪いはどうだろう。オタクに気持ち悪いと言われたら、ニキビ顔のお姉さんにエステに勧誘されるような・・・説得力がない。「なんなんだよ、急に魚観たりするようになったじゃん。おまえ結構、魚の魅力にはまってきてるだろ。素直に言えば、観せてやるのに。」侵入者にイラついていたわりに、魚の価値を理解してもらえたことには嬉しそうだった。でも、いちいち上から目線で言うので、可愛くない。
私が初めて餌の金魚を買いに行ってから、弟の水槽には私がアカバシで観ていたちっちゃい恐竜みたいな古代魚が仲間入りしていた。ポリプテルスラプラディという名前らしい。細長く、ナマズの背中に恐竜みたいな突起物がツンツン生えたような姿をしている。その他の古代魚は、シルバーアロワナとタイガーオスカー、単色のとにかくデカいのと、お腹の模様が派手派手しいやつだ。あとは名前がわからない。とにかく変な格好をしている。比較的大きい種類が好きらしく、デカデカと180センチ水槽で弟の愛する子供達は悠々と泳いでいる。決して広くない部屋で、古代魚用の180センチ水槽と、熱帯魚が幾種類と泳ぐ30センチから120センチサイズの水槽が所狭しと並び、餌用の金魚とメダカ用の水槽も完備されている。まるで、ミニアカバシのような光景で、違うところと言えば布団が申し訳なさそうに折りたたまれ、爬虫類がいないことくらいだ。「アカバシとは比較にならない。」と弟は言う。どうか、爬虫類にだけは手を出さないで欲しい、と私は願う。
「おまえ、アカバシたまに行ってるらしいじゃん。」
ふいを突かれ、私は焦った。悪いことはしていないけど、発作的に恥ずかしいと感じていた。
「・・な、なんで知ってるの!?」
ニヤっとオタクが笑った。・・・マジで気持ち悪い。でも、言わないであげた。彼に言うのはリアルすぎる。
「この前、アカバシ行ったらおまえいたから。」・・・見られていた。声くらい掛けてくれたら、と思ったけど、姉弟と知られるのも嫌だしそれで良かったんだ。「桜さんに、おまえのこと聞いたら、最近よく来てますよ。って言ってたし、あれ、俺のねーちゃん、って言っといた。なんか買うなら多分サービスしてくれるぜ。」私が何を買うんだよ、っていうか、バラしちゃったんだね・・・。
「サクラさんて、どの人?」素性がバレたことは諦めるしかない。
「すっげ綺麗な女の人いるだろ?あの人。」
「サクラさんて言うの?桜のサクラ?名前?」
「桜 美花って名前。桜は名字。女優みたいな名前だろ?」
得意そうにオタクが答えた。そんな仲よかったのかと嫉妬のような気持ちがしたが、当然だ。優良飼育で名を知られ、毎週通っている超お得意様なのだから。あのお姉さんは、桜 美花という名前だとわかった。益々、カメレオンに餌を与えている場合じゃないよ、と、また余計なお世話に思ってしまった。

オタクには、神秘の生物達に魅了されているから、という理由以外アカバシへ足を運ぶ理由なんてないのだろうけど、私にはもう一つ理由があった。美しい桜の花びらを宙で掴み取るような・・・叶わない淡い期待であっても、心のどこかで願っていた。









--  翠(ミドリ)  --




「本日の定食」は、鮭カマだった。隣の学生っぽい、髪の毛が伸びて毛先の方だけ金髪になった頭をした男の子が、天ぷら丼を食べていた。ここしばらく天ぷらを食べていないことに気が付いたが、食べたいと思う前にカメレオンの姿が頭に浮かんできた。まだ当分、天丼は食べなくていいや、と思った。天丼を見たせいではないが、帰りに久しぶりにアカバシへ寄った。ここのところ仕事が忙しく、休みは一日中寝ているだけの本当にただの「休み」で消化されていた。思わず、水槽の魚達に「久しぶり。」と挨拶をしてしまいそうだった。変わらぬその形と発色に僕は癒された。いつ来ても、古いタイプの眼鏡をかけた華奢な男性店員が、何がそんなに忙しいのかと思うくらい店内をバタバタしている。実際はそんなに忙しくはないのだろうが、彼はぜんまい仕掛けのような慌しい雰囲気の男だった。この店にはふさわしいタイプではある。店員は、4、5人はいるようだが、常は2人か3人で営業しているようで、眼鏡の男ともう一人、僕が来た時は必ずいる女性店員は、レジの前でオタクみたいな男の子と仲良さそうに喋っていた。長身で、ファッションモデルにでもなれそうなくらい美人な女性だ。オタクとモデルのミスマッチも、「アカバシ」でなら思わずスルーしてしまいそうになる。外では、なかなか見れる光景ではない。彼女の心から楽しそうな笑顔が印象的だった。
熱帯魚を順番にゆっくり眺めながら、おもむろに上着のポケットに手を突っ込んだ。紙が入っていた。アンケート用紙だ。あの日以来ここへ来たのは初めてだった。「金魚ちゃん」は何度か来たのだろうか。爬虫類コーナーへ進みながら、一応彼女がいやしないか確認した。出口付近のアンケートの台で、裏返しに重ねられたポストの中の上の方の何枚かだけをチラチラ覗いてみたが、誰も名前は書いていなかった。ついでに一瞬だけカメレオンを見た。緑の色をしたやつはほとんどいなかった。「補色で変わるわけじゃない、気まぐれで色が変わる。」と友達が言っていたのを思い出しながらそろそろ帰ろうと思い出口に向かうと、レオンのご主人様が僕を見つけて、嬉しそうに駆け寄ってきた。僕が、カメレオンを観にここへ来たのだと思って、興奮気味だった。面倒臭いのでそういうことにしておいた。もうしばらくここで時間を潰すことになりそうだ。








--  瑠璃(ルリ)  --





一週間に一度、店に設置されたアンケートの集計をする。集計というほどたいした仕事ではないが、意見や要望が書かれていることもあるので、チェックして、要望にはなるべく応えられるように努めている。以前に、お姉さんが綺麗でした、なぜここで働いているのか、という内容のアンケートが入っていたことがある。ここで働いているスタッフで、女は私しかいない。だから私のことを言っているのだろうけど、私はその内容にピンとはこなかった。よく、私がカメレオンなどの爬虫類に餌の虫をあげていると、不思議そうに、驚いたような顔でお客さんが私のことを見ている時がある。私は、餌を食べているカメレオンの姿が珍しくて見ているのだと思っていた。店長に、「桜ちゃん目当てで来てるお客さんも多いだろうなぁ。」と言われ、私のファンがたくさんいるということを最近知った。どうりで、カメレオンを見ているはずなのに、やたらと私と目が合うわけだ。でも、そんなに私は目を惹くような人間なのだろうか・・爬虫類や、魚などの生き物が好きで好きでたまらなくて、自分ではなかなか飼えないのでこの職場を選んだ。興味のある世界に足を突っ込んで、仕事にしている、そんなに変わった人生ではないはずだけど。
アンケートに書かれた内容が、わからない時は店長に聞いた。たまに店長も詳しくないほどマニアックな内容の時がある。熱帯魚や、魚類の時は、常連客の中でも群を抜いて知識と飼育の腕に長けた、通称「ハカセ」に聞く。彼は私よりずっと若いが、誰より熱帯魚を愛している素敵な男の子だ。私は、彼と話すのが好きだ。純粋に、熱帯魚や古代魚のためだけにアカバシに通う彼は、爬虫類に餌をあげる私の姿なんて、知りもしないだろう。毎週土曜日にハカセと話すのが私の一番の楽しみだった。前に、一度だけ餌用の金魚を買って帰った女性がいて、この店では見かけない今時のOLさんのような素敵な人だったので、私は印象深くてよく覚えていた。彼女は時々来るようになり、いつも熱帯魚を観ていた。その日も、いつものように熱帯魚を観に来ていた。ハカセの来る土曜日だった。「あの女の人、よく来てんの?」彼女を指差しながら、ハカセの口から女性の話題が出たのは初めてだった。私はドキっとした。ハカセのお姉さんだと知って、色んな意味で驚いたけど、それ以上に、ホっとしている自分がいた。

私は、ハカセにアンケートを見せながら、質問した。何枚かアンケートに目を通しながら、「<金魚>だってさ、センスねぇな。どうせ書くなら、<ディスカス>とかにしたらいいのに。しかも、内容意味わかんねぇし!」と笑った。私のことが書かれたアンケートだった。
ハカセは、「あ、そうだ。」と言って、古代魚の水槽の方へ突然去って行ってしまった。最近、特に気に入って観ている水槽には、オスフロネームスという最大で1メートルになる大型の古代魚の稚魚が泳いでいる。底に敷き詰められた砂や石が時折照明でキラキラ光る。黒というより、濃紺に近い色をした石が宝石のように光り、水槽を見つめるハカセの横顔が眩しく見えた。








--  視線(ネツ)  --




僕は、観たくもない爬虫類コーナーで、レオンと同じカメレオンを観ていた。帰ってレンタルDVDでも観ようと思っていたのに、友達はなかなか解放してくれそうにもない。そっと爬虫類コーナーを離れた。そのまま帰ってしまおうかとも思ったけど、さすがにそこまではできず、熱帯魚コーナーを観るしかなかった。古代魚の水槽の前で、さっきのオタク君が、熱い眼差しで魚を見つめていた。時が止まったかのように彼は夢中で観ていた。どのくらいの時間見つめているのだろうか。カメレオンを見つめる友達よりも鬼気迫るものを感じた。相当好きなのだろう。レジでは、美人の店員さんが、アンケート用紙の束を手に、真剣に読んでいた。僕は、ポケットのアンケートを再び思い出し、罪悪感に駆られ、なんとなく彼らの近くが居づらくなったのでカメレオンの一角に戻ることにした。


その翌々週も僕はアカバシへ行った。この日も眼鏡と美人のシフトだった。今日ここへ来たのは、持ち帰ったアンケートをポストに入れるためだった。やっぱり、勝手に僕が持っているのが忍びなくなり、返そうと思った。三つ折どころか、五つ折くらいに小さく折ってしまったアンケートの紙を広げて、できるだけしわを伸ばした。ヨレヨレになった紙を一応、彼女がしていたように表向きにそのまま置いた。
アンケートを返したら、帰ろうと思っていた。それでもなんとなく熱帯魚コーナーに目が向いた。先々週、オタク君が陣取って観ていた水槽の前にあの娘がいた・・・。










--  叶(ネン)  --





「桜さん」に素性がバレたと知って以来、初めてアカバシへ行った。
店内に入ってすぐに、桜さんと目が合った。お互い自然に会釈をした。桜さんは、心なしか頬が赤くなって照れているような感じがした。やっぱり、魅力的な女(ひと)だと思った。
オタクバカが、次に狙っているのは、オスフロネームスという古代魚らしく、その種の中で、半分くらいの大きさにしかならないレッドフィンオスフロが欲しいのだと言っていたが、目の前の水槽に貼られたネームプレートを読まなくては、そんな名前私はとても覚えられなかった。気が短く、荒々しく、大食漢・・・どこに惹かれたのだろう。水槽の中にいるのはまだ小さい稚魚で、可愛いと思えばそう思えなくもなかったが、餌に泳いでいる金魚の方がよっぽど可愛らしかった。
ふと、隣に人が並んで立っているのに気付いて、私が鑑賞の邪魔をしてるのかもしれないと思い、ちょっとだけ横にずれた。何気なく横にいるその人を見た。




・・・・・

見間違いかと思った。見間違いであってほしいと思った。



「タクミ」だった・・・
正しくは、「アンケートのタクミだったらいいな。」と私が勝手に思っている男(ひと)だった。




ドキドキどころか、心臓はバクバクだった。
逃げたら余計に怪しいので、平静を装い、しばらくその場に立ち、水槽を観ているフリをした。オタクの欲しい魚なんて、もうどうでもよかった。気まずい空気に限界を感じて、この場を離れようと思うが、反対は行き止まりで、逃げるには「タクミ」をよけるしかない・・・。決意して私は動いた。予想より通路が狭く、これだけアカバシへ通っているにも関わらず、目測を誤り、私は「タクミ」にまたもぶつかってしまった。この人が、あの「タクミ」かもわからないし、私とぶつかったことなんて覚えていないかもしれない。でも今回は、事故を装うにも苦しい状況に、私は恥ずかしすぎて謝ることすらできずうつむいていた・・・

聞こえてきた彼の言葉に私は耳を疑う。







「・・・二回目だね。」

私はびっくりして彼の顔を見上げた。
「は、・・はい。・・・ごめんなさい。」
精一杯の返事だった。
彼は穏やかに微笑んでいた。










--  金魚(ワタシ)  --




アンケートを元に戻したことが功を奏したのか、僕は「金魚ちゃん」にまた逢えた。
自分でも意外なほど冷静だった。何も考える暇もなく、気が付くと、僕は彼女の元へと歩んでいた。彼女は全然気付く様子もなく、ついに水槽の前で僕らは並んだ。声を掛けたかったが、どう声を掛けたらいいものか迷った。「金魚さん、ですよね。」と、言いたかったが、彼女が<金魚>というペンネームであることは誰も知らないわけで、そんなことを言えばストーカーだと思われ兼ねない。「よく、来るんですか?」・・・なんとも気の利いた台詞とは思えない。ぐるぐるぐるぐる頭で色んな台詞をシュミレーションしてみるものの、実際に口にできる台詞がなかなか出てくれなかった。棒立ちの二人の静寂を破ったのは彼女の方だった。突然、勢い良く僕にぶつかってきた。前回の再現を彼女がしてくれたのかと思って、笑いそうになった。思わず、

「二回目だね。」と言ってしまった。

彼女は、余裕なさそうに、慌てて僕に謝っていた。前に僕とぶつかったことは覚えていたらしかった。驚きと、恥ずかしさで動揺しているように見えた彼女の表情が何ともいじらしく思えたので、僕も後先考えずに口走っていた。










「・・名前、なんて言うの・・・?」


僕は、金魚のほんとうの名前を知りたくて仕方がなかった。












--  赤橋(ラヴスポット)  --




確かに彼は、「二回目だね。」と言った。
覚えててくれたんだ!!飛び上がるほど嬉しかった。この人の名前が「タクミ」であることは知っているけど、あのアンケートの「タクミ」であるかどうかはわからない。でも、もうどっちでも良かった。その後、いきなり名前を聞かれたのに、動揺していて、私は一生懸命素直に答えた。他にもいくつか質問をされたり会話をしたらしかったが、ほとんど覚えていない。彼への挨拶もろくに、私は出口に向かっていた。後ろから呼び止められ、振り向くと、桜さんだった。彼女は「古代魚・深海魚の不思議展」という展覧会のチケットを私に差し出し、弟に渡して欲しいと頼んできた。観に行きたいが、一緒に付き合ってくれる人がいないから・・と言っていたが、彼女は明らかに顔を赤らめていた。・・・まさか。そんな物好きがいるはずがない。冗談は、カメレオンの餌付けだけにして欲しい・・・私はにわかに信じ難かったが、彼女の瞳は、カメレオンの前で魅せたそれよりも、もっと艶やかだった・・・。

でも今は、他人の事をかまっている余裕がない。
とりあえず、チケットを預かり私は急いで車に乗った。
手には、チケットが一枚と、なぜか名詞が一枚あった。
<広木 匠>

私は、動揺している間に、「タクミ」の連絡先をゲットしていた。ことの成り行きを把握できぬまま、エンジンもかけずにしばらく放心していた。鞄の中でドリカムが鳴った。
『おまえ、アカバシにいるんなら桜さんに、来週レッドフィンオスフロ買いに行くから予約しとくように言っといて』というオタクバカからのメールだった。
レッドなんちゃらよりもっと凄い獲物がわざわざ向こうから寄ってきたというのにこの馬鹿が。
携帯を助手席に置いて、チケットと名詞は鞄にしまい、エンジンをかけた。






電話を掛ける口実が、「アカバシ」のこと以外で浮かばない。
「熱帯魚派ですか、爬虫類派ですか?」
「古代魚に地球の歴史を感じませんか?」
「眼鏡の店員さん、実はハタチらしいですよ!」











「匠さんは・・アンケート書いたことありますか・・・。」

私がアンケートで「金魚」と書いたと言ったら、笑われるかもしれないけど。












| main | next »

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。