マルーン色の傷跡
<煮え切らない関係。・・うん、まさにその通りね。>
キッチンに立ちながら詠子は思っていた。
夜の8時頃に詠子の部屋に毎日のように晋悟は来た。夕飯を食べ、二人でまったり過ごし、翌朝を迎え、晋悟はそのまま出かけた。来るというより「帰ってくる」と言った方が正しいかもしれない。少なくとも寝起きを共にする生活になっていた。
毎日晋悟は仕事へ出かける。バイトなのか、就職しているのかは知らないが。多分、仕事はしているようだ。
実のところは知らない。教えてくれたとしてもそれが本当かどうか、詠子が彼を信用するにはあまりに彼について知らなさすぎる。
素性を知らなくても、男と女の関係って成立するもんなんだ、って今更ながら思っていた。名前と携帯番号さえ知っていれば、「信用」とか「人間性」など後回しでも成り立つのだ。探ればいいのだけど、そういう気が起きない時もある。名前だって本当かどうか疑えばキリがないのだけれど、名前はきっと本当だろうと何となく信じられた。
根掘り葉掘り聞くことはプライドが邪魔した。
向こうは本気なのか遊びなのかわからないのに、私の方がのぼせてしまっていると思われるのが嫌だった。私のことは全く聞かないし、聞きたそうな素振りもない。聞いたばかりに面倒臭そうに迷惑そうな顔をされるのが嫌だった。「お前もそのへんのバカ女と一緒だな。」と思われそうで。
女にしたら最小限の質問も、男にとったら野暮ったい質問なのだ。
態度では、同等に振舞っていても、心の中は変なプライドやいい女に見られたいという見栄に支配されていた。そしてすでに詠子は晋悟にのめり込んでいるということも意味していた。関係が終わることを恐れて、飄々と演じているだけで、女の中身は、聞くに聞けないで男の出方にビクビクしているただの弱っちい奴だった。
鍋の中身は、まるで今の詠子の心のようなシーフードカレー。
海老やイカ、帆立になぜかタコまで入れた今日のカレーは、とりあえず主役級の具材をたっぷり入れて、見栄えの良い、いかにも美味しそうなカレーだ。味は市販のルウを使っただけで、特別こだわった味付けや材料は使っていない。使わなくとも海鮮のダシが出て充分旨いはずだから。
味はもちろん大事だけど、とにかく見た目のボリューム感は外せなかった。表面を健気に繕う今の私のよう。そう思うと鍋をかき混ぜる右手の動きが鈍くなった。
「カレーの匂い!へぇ、美味そうじゃん!」
帰ってくるなり鍋蓋を開けて中を覗き込む。期待通りの反応に詠子は気分が良くなった。
サラダや一品ものを並べたテーブルに、いよいよカレーが運ばれる。待ちきれずスプーンを片手に持つ姿に胸がキュっとなった。
「エイコ、料理うまいよな。毎日美味しいし、夕飯楽しみだもん。」
「そう?ありがとう。いつもしてることだし、一人分が二人分になっただけだけどね。」
照れ隠しと力んでないことを主張した。飽くまで今までと変わらない、あなたが現れる前も後も私は変わっていないというアピール。
居心地が良さそうに、隙だらけの顔をして海老やタコを頬張っている。今だけを生きているかのような生き方が羨ましくも思えた。
カレーにまみれて茶色くなった海老やイカは、そのシルエットで判別する。茶色の海老が口よりも大きく、噛み砕くのが大変そうで、半分に切っておいたら良かったと思いながら詠子も茶色の帆立を一口に入れた。
詠子はワインで晋悟は冷酒で晩酌を交わし、いつも通り愛し合った。
・・・愛し合ったのか、一方通行なのかはわからない。肌でそれを感じられているのか自信がない。愛し合っているのなら言葉などいらなくて、目と肌で通じ合うものなのだとすれば、わからないのだからやっぱり一方通行なのかなと諦めのような気持ちになる。ただのオスとしての交わりなんだと、下から晋悟をメスになりきって見つめるしかなかった。
「今度、掻揚げ作ってよ。俺、エビ好きなんだー。」
今日はやけに美味しそうに食べていたと思ったら、そうだったのか。
詠子の飲みかけのワインに手を出しながら、遠慮もなく言った。
何気ない一言に女の心は躍る。たかが、男の好きな食べ物を知ったくらいで。
口にしたワインがラグマットに数滴落ちた。あっ・・って思ったけど、言わずに許した。晋悟はテレビに夢中で気が付いていない。
「揚げ物は一人だとあんまりしないけど、別にいいよ。」
わざとそっけなく言う。いつ作ればいい?って言葉が喉まで出ていた。
あれから、2ヶ月・・晋悟は姿を消した。
もともと「次」の保証なんて無い関係だったのだから、突然消えてもおかしくはないし、いつかの準備も心のどこかではあった。
でも、掻揚げを食べてからの話だと勝手に思い込んでいた。
「九州に連れがいる。」とかなんとか最後の日に言っていた。だからって九州に行ったとは限らないけど、その翌日からぱったり帰って来なくなった。そういえば、携帯にかけたことなんてほとんどなかったけど、かける勇気もない。プライドを破るのも一つの勇気・・こんなプライド持ってたって仕方ないのに捨てられない。どこまでいい女を演じる気でいるのか。お前も所詮そのへんのバカ女なのに!
ワインで酔った勢いで、晋悟の番号とアドレスを削除した。
こちらからかけることはなかった。
メールも女々しいような気がしてしたことがない。女々しい・・って、女のくせにね。自分に笑いたい気持ちだった。次が次の日だって決まっていないんだから、一年後、ひょっこり帰って来たり・・そんなことがあるのかもれないけど、その時迎え入れるのは、それこそバカ女だ。
男はあんただけじゃないよ。
エイコも暇じゃないんだ。ってのを、わからせてやりたい。
でも、そもそも一年後にでも帰って来るなんてこっちが勝手に想像しているだけじゃないか!馬鹿馬鹿しい。
意地っ張りに見栄張ってみたものの、晋悟に完全に振り回されている。
ほんの数ヶ月、「次」が毎日やってきただけだ。それが無くなっただけ。私は私。何も変わらないはず。
再来月でこの部屋を出る。
来年早々に更新で、この機会に新しい部屋に越そうと一年前から決めていたこと。晋悟には言わなかったけど、後悔も別にない。
再来月までに帰って来ることがあれば、話すかもしれないけど、帰って来なくったって何も問題は無いんだから。
ただ、なんとなく涙が勝手に流れるだけ。
ついでにこのラグにも飽きていたところだし、たまたま染みが付いて捨てる口実ができた。丁度良かったんだと言い聞かせて、涙と一緒にラグを丸め込んでゴミ袋に押し込み、ギュっと口を固く縛った。ビニールが破けそうなほどに指に力が入っていた。何でもいい・・踏ん切る理由が欲しかった・・・
当分は、シーフードカレーは作らないかもしれない。
もともと海老はあんまり好きじゃないし。
※マルーン・・・・(海老茶色、(葡萄茶色 えびちゃいろ)茶色よりはワインレッドに近い。由来はエビカズラ(山葡萄)だが、音がエビで海老と混同して海老茶と呼ばれるようにもなった。