winter song
突然の訃報で驚いたのは、死んだことにではなく、一週間前まで父親が生きていたという思いがけない事実にであった。
私は母に育てられた。父親は私が乳飲み子の時に病気で死んだと聞かされていた。母は再婚もせず、女手一つで昼も夜もなく働き、私を大学まで行かせてくれた。
幼い頃は、父親がどんなものかも知らないのに父親を恋しく想い、両親のいる友達が羨ましかった。祖母と過ごす時間が多かったので、母の勤め先の事情で急に仕事が休みになると、母は困っていたが、私はそれが嬉しくて仕方がなかった。仮病を使って学校を休んだりした。母はそれが仮病だとわかっていたに違いない。私にも子供ができた今はわかる。
布団に横になって、台所に母の姿があるのを何度も見ては、嬉しくて大笑いしたいのを布団をかぶって隠した。母は仮病の私におかゆを作って食べさせてくれた。
その母も、半年前に亡くなった。
祖父母も、母の姉妹もとうに他界し、顔を知る親戚はいなくなってしまった。
触れることで、母の思い出が溢れ返り、それがまだ辛いと感じるうちは遺品の整理ができなかった。半年経って、ようやく母の部屋に入っても大丈夫な気がして私はふすまを開けた。
綺麗好きだった母は、亡くなる前も相変わらず整理整頓された部屋を保っていた。なんとなく、押入れに惹かれて開けてみると古いダンボール箱を見つけた。中身は、私の小学校の文集や母の日に贈った似顔絵やペン立てなどだった。私の思い出というより、母の思い出としてしまわれていたのだろう。取り出して眺めていると、底の方に紙袋の包みが出てきた。中身を見ると、葉書の束だった・・・。
忘れていた記憶が一瞬で蘇り、私の背中に戦慄が走る・・・
差出人は、住所もない「やさいのおじさんより」
思い出した・・・。幼い頃、私は野菜のおじさんと文通をしていた。
私の言葉を母が葉書に書いてくれた。
「たかひこくん、こんにちは。
たかひこくんはピーマンがきらいなんだね。にんじんがすきなんだね。
ピーマンをこまかくきって、にくといろんなやさいでいためてたべたらおいしいよ。おじさんのつくったピーマンをおくるから、おかあさんとたべてね。きっとたべられるよ。またね。」
野菜のおじさんのおかげで、私は随分と野菜嫌いを克服してきた。
ただ、おいしいよ。たべられるよ。と書かれていただけなのだが、子供には充分すぎる効果があった。
葉書が来ていないかどうか毎日ポストを見た。届いている時は、大声で母を呼び、わくわくしながら返事を書いてもらった。
おじさんとは、野菜の話だけではなく、テレビの話や野球の話などもした。しかし、成長するにつれ、それ以上に楽しいことや興味の対象が増えていき「やさいのおじさん」のことは忘れてしまっていた。
葉書をランダムに見ていると、プロ野球選手の名前や、車や電車の乗り物の名前など、男同士らしい内容だったのが伺えた。
野菜のおじさんに会ったことはない。誰なのかも知らない。
文頭は、必ず「たかひこくんへ」で始まっていた。
押入れには、ダンボール以外に衣類ケースと布団が収納されていた。随分と物が少なかった。葉書の束だけを取り、押入れを閉めた。
鏡台と箪笥と、ちょこんとした机と椅子が置かれているだけの殺風景な部屋。
机の引き出しを開けてみた。一番上に母の字で、病院の名前と男性の名前が書かれた紙があった。知らない名前だった。
明るくて、顔の広い母だったので知り合いなのだろうとその時は気にも留めず引き出しを閉まった。
一階の奥の母の部屋に入ってから、三日後のことだ。
私宛に、小包と手紙が届いた。中身は葉書の束だった。
「やさいのおじさんへ つかもとたかひこより」
私が野菜のおじさんに出した葉書のようだが、なぜここにあるのか、野菜のおじさんとのやりとりをつい三日前に思い出したばかりで、事の成り行きに頭がついていかなかった。
手紙は小包の中に入っていた。細やかな字で、便箋十三枚にも及ぶ手紙は、死んだはずの父が生きていたという吉報にも近い、悲しい知らせだった。
差出人は、父の妹と名乗る女性で、母が亡くなったことを最近知り、父も亡くなった今、私には一生明かさないと決めた家族の約束を、悩んだ末に独断で私に手紙を書いたのだ。
突然の手紙で申し訳ないという冒頭で始まり、両親について、私は初めて知ることができた。
父と母は、大学時代の先輩と後輩で、母の卒業を待っての結婚だった。
翌年、私が生まれた。父は清掃会社に勤めていたが、稼ぎの良い現場の力仕事へ転職した。私が一歳になる前に、現場の事故で右腕と右目の視力を失い、両足に障害を負った。
今ほど福祉に充実した時代ではなく、障害者に対する意識も認識も薄く、環境も整っていなかった。障害を負った夫と乳飲み子を抱えての生活は若い母には酷だと、双方の親は2人に離婚を薦めた。父は承諾したが、母は拒否した。皆が離婚を促す中で一生懸命介護と育児をこなすも、日に日に痩せやつれていく母は見るに耐えられないものだった。
叔母いわくは、離婚が決して良い解決法ではないとしても、母と父と子供が健全に生活するためには一番良いと両家の親が話し合った結果だという。このままでは、子供を施設に預けなければ夫婦でい続けることは無理だと母を説得した。
子供を手放すという条件は、母に離婚届に判を押させる決め手となった。その代わり母は、父親は死んだことにしてほしい、今後二度と会わないでほしい、連絡もしないでほしいと言ったという。父を愛していたが、自分の決意と覚悟は半端なものではないと示したのだろう。
父は、親元で暮らした。懸命なリハビリで、杖をついて自分で歩けるところまでは何とか回復した。利き手を失ったので、左手で何でもできるよう訓練した。両親が他界した後は叔母が引き取った。
兄とは言え、嫁いだ自分の家族の中で障害者の面倒を看るのは、想像以上に大変だった。父もそれを気にしていたのか、自らどこか入れるところがあれば、施設でも病院でも入りたいと言ったそうだ。
叔母の夫の親戚が、口を利いてくれ、リハビリ病院の介護施設に入れることになり、先日亡くなるまでそこで暮らした。
施設は、希望者に施設内の畑を開放していた。リハビリを兼ねた娯楽的な設備の一つだった。父は、片手で種や苗を植え、畑仕事に精をだすようになった。作物を育てる楽しさと喜びで、父の畑はいつしかたくさんの野菜が季節ごとに実った。野菜が育てられるようになると、この野菜を母と私に食べてもらいたいと思うようになった。
父は、母との約束を破り、叔母に取り合ってもらい間接的だが連絡をした。野菜の旨を伝えると、母は、名乗らないと再度条件を出したが、快諾したという。
父は、自分の食べる分を少しだけ残し、収穫した野菜のほとんどを母と私に送っていたという。私からの葉書が届くと、嬉しそうに先生や介護士の人に見せた。テレビが見れる部屋で、子供向けアニメなどをいい歳をしたおじさんが食い入るように見ているので、理由を知らない人は可笑しがっていたそうだ。私に葉書を書くことを父は一番楽しみにしていたのだ。
七年弱、父は畑で野菜を作り続けた。
夏の収穫で丸七年が経つところだったが、収穫目前で風邪をこじらせ長引いた。長く寝たままの状態が続くと筋肉が落ちる。一度足の筋肉が落ちると回復させるのは容易ではない。再び一からのリハビリを開始したが成果はなかなかあがらなかった。畑の野菜は病院の給食に使ってもらい、畑は譲ってほしいという人にそのままで譲った。
思うようにリハビリの成果が得られず、数ヶ月が経った。夏の野菜を送れなかったことをとても残念がっていた。夏に一度、私から葉書が届いたそうだ。
「なすびときゅうりととまとがすきです。」
でも、父は野菜を送れないのはもちろん、なぜだか返事の葉書も書けずに時は流れた。叔母が母に、父が野菜を作れなくなったと知らせたが、母も父へ連絡をすることはなかった。
たくさんの距離を歩くことが難しくなり、時折、車椅子で畑の近くを通ると、「冬子と聖彦は元気かな・・・。」と呟いていたそうだ。
母は、父と連れ添い人生を共に生きたかった。
子供を引き合いにされたとはいえ、決別を選んだのは自分の責任であり、父親がいない子になってしまったのは自分達二人の責任だと考えていたのだろうか。父には私の写真すら送らなかったようだ。
不慮の事故で障害を負い、妻と子供と別れ、自分の生活も一人ではままならず介護されながら過ごした人生とはどんなものだったのだろうか。
何も非がないのに、愛する女性と子供に会うことができなかった父の人生とは・・・。
連れ添う覚悟を打ち砕かれ、愛する男性に、自分と子供には会うなと突きつけ、父親は死んだと我が子に嘘を突き通した母の人生とは・・・。
私には父親がいなかった。
顔も、声も、その手の温もりも私は知らない。
しかし、私に野菜を作ってくれ、嫌いな野菜を食べられるように、母にしてもわからない野球の話やアニメの話を聞いて相手をしてくれたのは、紛れもなく、父だったのだ。
父が、つい最近まで生きていたと知り、もっと早く知っていれば・・・と、思わないと言えば嘘になるが、死んだと聞かされていた父が、私が生きてきた時と同じ瞬間を共に生きていたのだということがわかっただけで、こんなにも心に感動が満ち溢れるものなのかと私は身をもって感じていた。声が出るわけでもなく、勝手に涙が流れ、床にポタポタと落ちる。心は取り乱すどころか、むしろ澄んでいた。柔らかい絹の糸のような涙がとめどなく溢れ続けた。
母の机の引き出しをもう一度開ける。
リハビリ病院の名前と、氷長 純 と書かれた紙を取り出した。
叔母の手紙に、父の名は「氷長 純(ひなが きよし)」と書かれていた。「きよし」だとは思わなかった。
私の息子が生まれた時、名前が女の子みたいな響きだと皆があまり賛成してくれない中、母だけが良い名前だと喜んでいたのを思い出した。
私は息子の名前を「聖夜」<きよ>と名付けた。
母があんなに喜んだ理由が今わかった。偶然だが、運命めいたものを感じずにはいられなかった。
母が「冬子(ふゆこ)」私が「聖彦(たかひこ)」結婚した妻も偶然「由季(ゆき)」で、冬にちなんだ名前だった。
そして父も・・・・。
母の字で書かれた父の名前を、私は大事に財布にしまった。
引き出しには、ノートやファイルがあり、その下におそらく一番最後の日付の消印が押された「やさいのおじさん」からの葉書があった。
「たかひこくんへ。
もうすぐ、なつのやさいができます。おじさんのはたけには、たかひこくんとたかひこくんのおかあさんにたべてほしいやさいたちが、たくさんみのりそうだよ。まいにちおおきくなるように、おじさんがかみさまにおねがいしています。はやくふたりにあえますようにと・・・。またね。」
その年、夏野菜が送られてくることはなかった。
父の容態を聞いて、母はどう思っただろうか。
私に読んでくれたかどうかはわからないが、母はこの葉書だけ、傍らに置いていたのだ。何度も読んだのだろう、硬い紙はしなってくたくたになっていた。
二人とも死んだのに、耳に二人の声がこだまする。
「あなたを今も愛しています。」と。